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更新日:2017年7月27日

宮崎の水土を拓いた人々

宮崎の水土を拓いた人々

我が国の水田稲作の基礎は、水と土という自然の恵みを受け入れられるよう、これらに水路などの人工物を組み込み、これを維持・運営するための社会集団や制度、儀礼、年中行事、慣行などを伴って形成された<水>と<土>と<人>の複合系のうえに成り立っています。先人たちはこの複合系を巧みに「水土」と呼んできました。

水土は、歴史的時間を経て、先人の辛酸をなめた労苦の上に形成されてきました。今日の宮崎県の経済社会の発展は、先人が拓いた水土の上に成り立っていると言っても過言ではありません。

ここでは、宮崎の水土を拓いた人々の中で代表的な人物を紹介します。

杉安井堰と児玉久右衛門

杉安井堰

杉安頭首工は、西都市役所から国道219号線を北へ約5キロメートルの一ツ瀬川の中流域に位置しています。

 

児玉久右衛門は、元禄2年(1689年)に穂北郷の庄屋の息子として生まれました。ところが、この地帯は水利の便が非常に悪く水が乏しい地域であり、取れるお米は年貢の10分の1程度で、先祖代々引き継がれた農地を手放す農家も少なくありませんでした。

これを見かねた久右衛門は、米良川(現一ツ瀬川)より水を引き、水田の造成を考え、藩の許可を得て、享保5年(1720年)に水路と井堰造りに着手しました。途中、出資者の変更、工事の妨害、洪水による堰の流失など幾多の問題がありましたが、享保7年(1722年)に第1期工事が完成し、14町歩(約14ヘクタール)を潤しました。寛延3年(1750年)に第2期工事が完成し、水田80町余(約80ヘクタール)をかんがいし、後に水田600町歩(約600ヘクタール)に達しました。

その後、幾多の改修と昭和8年(1933年)及び昭和52年(1977年)の大改修により、現在の近代的な頭首工が完成しました。久右衛門の大事業に村民は深く感謝し、毎年米36俵を永代子孫に寄贈していたが、現在では奉賛金として霊前にお供えし、11月には児玉久右衛門翁をしのび、慰霊祭がとり行われています。

杉安頭首工に隣接して設けられた西都市土地改良歴史資料館には児玉久右衛門や農業農村整備に関する資料が展示されており、県下からたくさんの子供たちが訪れ、堰や用水路の管理をしている杉安土地改良区の人からの説明を聞きながら、郷土の先輩達の偉業を通じて地域の歴史や人と自然とのかかわりなどについて学習しています。

西都歴史資料館

岩熊井堰と藤江監物

岩熊頭首工は、延岡市の中心部を流れる五ヶ瀬川沿いの下流域に位置しています。

今から約270年程前の江戸時代の中頃、恒富村大字出北村は、水に乏しく米の収穫が極めて少ない「ひばりの巣」と称される荒地でした。このため、農民は貧困にあえいでいました。

農民の苦しみを知った延岡藩家老の藤江監物は、享保9年(1724年)に郡奉行の江尻喜多右衛門に命じ、五ヶ瀬川に井堰と水田に水を引くための用水路を作らせる事にしました。工事は、初め順調に進んでいましたが、台風や洪水の度に造りかけていた堰が流されたり、作業員に怪我人や病人が増えたりして、次第に工事が進まなくなりました。

こうした中、かねてより監物に対して快く思っていない家臣達が、藩の財政が窮迫している時、監物が遊興に浪費し贅沢乱費を極めていると罪状をこしらえ、享保16年(1731年)に監物親子4人を逮捕し投獄しました。その結果、監物は入牢後4ヶ月後にその生涯を終えました。

岩熊井堰

監物亡き後、当初より現場の責任者であった郡奉行江尻喜多右衛門が村を激励し、監物の死から3年後の享保19年(1734年)に、ついに岩熊井堰が完成しました。工事前には150石しかなかった米の収穫量も、755石にまで伸びました。

 

その後、幾多の改修と昭和8年(1933年)及び昭和46年(1971年)の大改修により、現在の近代的な頭首工が完成しました。今日でも地域の人々は、監物の命日(旧暦の8月18日)に、日之影町舟の尾の墓所に参拝し、慰霊祭を行い感謝の意を尽くしています。

藤江監物

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