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更新日:2019年2月13日

宮崎豆知識

「日向」の国域・由来・呼称について

の宮崎県を含む南九州の地域を「日向」あるいは「日向国」と呼んだ時期がありました。

代律令国家の「日向国」は西暦684年から696年までの間に成立したものと考えられています。その日向国から702年には薩摩国が独立し、さらに713年4月3日には大隅国が分立しています。このとき南の一部を除いて今の宮崎県域にほぼ近い国域が確定しました。(注)(江戸時代と明治以降に一部変動があります。)

日向」の由来について「日本書紀」は景行天皇17年の条に「直向於日出方、故號其国日向也」(なおく日(ひ)の出(い)ずる方(かた)に向(む)けり、ゆえに、その国(くに)を号(なず)けて日向(ひむか)という)と、「釈日本紀」所収「日向国風土記逸文」に同天皇が「此国地形向扶桑宜號日向也」(この国(くに)の地形(くにがた)、ただに扶桑(ひい)ずるかたに向(む)けり、よろしく日向(ひむか)と号(なず)くべし)として「日向」と名づけられたという地名の起源説話をのせています。

名としての「日向」及び「日向国」をどう読むかについては、古事記や日本書紀以下の史書でも、読みの手がかりとなるものがきわめて少ないのです。

本書紀推古天皇20年条にみえる「譬(辟)武伽能古摩』(ひむかのこま)の「譬武伽」は日向をさして「ひむか」とよんだものとみられます。「日に向う国」という意から「ひむか」とその国の名を付けたという、さきの説話もうなずけるところです。
10世紀前半に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」は「日向宇加国府兒湯郡」として「比宇加」(ひうか)とよんでいます。

戸時代の国学者本居宣長は、「古事記傳」の中で、次のように述べています。「此ノ國ノ名は、書紀推古ノ巻の大御歌に、辟武伽〔武は必ズ牟の假字なり。〕とあれば、古は宇の如此唱へしなり。(和名抄に、比宇伽とあるは、後に音便に頽(くづ)れたるものなり。大和の多牟(たむ)ノ峯をも、後には、多宇乃峯と云と同じ。此外にも、中昔よりは、牟(ム)を宇(ウ)と云なせる言多し。)

世以降になると、かな書きの文書があらわれます。元應2年(1320)「日うかの國、うきた(浮田)の庄」(前田公爵家所蔵文書)、康永2年(1343)「ゆつりわたすひうかのくにたしまのしやう(田島庄)」(伊予西福寺文書)、正平5年(1350)「ひうかのくにたかちを(高千尾)のしやう」(阿蘇文書)とみえます。

戸時代中期、谷川士清の著である「倭訓栞(わくんのしおり)」は「ひうが」と読み、濁点を付しています。

のように「日向」の読みにはいろいろ変遷があって、異なる訓読がみられ、また同一本の中でも、箇所によって異なる訓読がしてあるのもめずらしくありません。

和57年刊の日本思想体系.「古事記」(岩波書店)の訓読文は「ひむか」「ひむかノくに」で通しています。また昭和42年以降刊行の古典文学大系「日本書紀」でもその訓を「ひむか」としていますが、これはそれぞれの史料や史書を理解するには、その史料が生まれた時代や史書が書かれるもとになった史料の時代の読みや呼称に近づくことが大切という姿勢によるものです。時代によって異なる正しい読みを明らかにしていくこともまた歴史の課題といえます。

(宮崎県文書センター井哲雄)

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