宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
石垣の村

見立(みたて)渓谷に沿う山の斜面に広がる棚田。周辺の土地は岩盤が多く、少し掘れば岩石に当たるが、先人たちはそれを生かして大規模な石垣を作り上げた。その知恵の深さと粘り強さは見事というほかない。

七戸の集落が作り上げた石垣の村
村人総出の「手間加勢」(てまがせい)は現代も息づく
●日之影町戸川地区

日之影町内で五ヶ瀬川から分かれる支流・日之影川の渓谷に沿ってさかのぼっていくと、日当たりのいい斜面に石組みの壁が連なる小さな集落が見えてくる。日之影町戸川地区。「石垣の村」の呼び名そのままに、ここは棚田だけでなく蔵や塀、集落の中を通る小路まで石組みが施され、まるで古いヨーロッパの町を思わせるような独特のたたずまいをみせている。

坂本博組合長わずか七戸の集落でこれだけの石垣を完成させるのは、途方もない難事業だったように思われるが、それは生活のために必要に迫られてというばかりではなく、半ばはひとつの趣味・芸術のようなものではなかったかと、石垣の村管理組合の坂本博組合長は語ってくれた。※同組合は平成17年度宮崎県地域づくり奨励賞を受賞。

戸川地区で最初に石垣を作ったのは、坂本さんの先祖にあたる坂本寅太郎氏で、江戸末期のこと。後には同郷の藤本嘉三郎氏とともに江戸城改修の際に石工として赴くほどの名人だった。それから、近隣の人々は競うように石垣を作り始め、明治30年に起こった火災をきっかけにした石蔵づくり、大正14年に完成した七折用水による棚田づくりに、その石組みの技術は生かされた。

「当時、九戸の村でこれだけのものを作ることができたことには驚くばかりです。今も互いに助け合う『手間加勢』という言葉があるように、集落の結束の力でしょうね。ただ、生きるために絶対に必要な石垣ばかりではないことを考えると、自からの技術を競い、誇る気持ちも、どこかに込められていたのではないでしょうか。寅太郎の仕事なども凝りに凝っていて、まるで芸術ですから」(坂本博さん)
「嘉永の石垣」と呼ばれる寅太郎氏の石垣は、現在も坂本家に残り、その見事な仕事ぶりを見ることができる。

集落の石垣

集落にはこのような石垣がめぐらされ、独特の景観を作っている。中には高さ11メートルにも及ぶ、日本一の高さの石垣も。

七折用水と棚田づくり
戸川地区ではもともと険しい地形から田を作ることもなく、村の産業はシュロとコンニャクイモの栽培に頼っていたが、シュロが高値で売れ経済的には割合に恵まれていたという。それが、石垣づくりという大工事を支えていたのかもしれない。その戸川地区に日之影川から水を引く七折用水は、大正9年に工事が始まり大正14年に完成。総延長36kmにも及ぶ大規模な用水により、人々は山を拓き、田を作ることができるようになった。

棚田風景

戸川地区の棚田も用水の開通時には完成し、明治時代から約50年をかけてこつこつと積み上げてきた石垣の村は、大正末期にはほぼ現在の形となっている。80年以上たった今、いつまでも静かなたたずまいを残している「石垣の村」だが、平成2年には、地どれの山菜や地元の特産物を味わえる「石垣茶屋」がオープン。宿泊もでき、旧トロッコ道のウオーキングなど自然をゆっくりと満喫できる。平成11年の日本の棚田百選認定を機に、毎年4月に「棚田まつり」も行われるようになり、町内外との活発な交流が始まった。住民総出の「手間加勢」の伝統は、現在、地域づくりにも存分に発揮されている。

七折用水の取水口付近 美しく整った棚田
七折(ななおれ)用水の取水口付近。水路はここから延長36kmにわたって流域をうるおしていく。 初夏、石垣によって美しく整った棚田に水が張られた。
棚田まつり トロッコ道ウオーキング
毎年4月に開催される棚田まつりは、おごそかな神楽の奉納に始まり、コンサートや子供たちによる釣り大会など、町内外の人々で終日にぎわう。 日之影町中心部から戸川にいたる旧トロッコ道は絶好の散策コース。棚田まつりでは、トロッコ道ウオーキングも行われている。

棚田の風景