掲載開始日:2023年12月22日更新日:2024年10月17日

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牧水の生涯

1885年(明治18年)~1905年(明治38年)

1885年(明治18年)

  8月24日、現在の宮崎県日向市東郷町坪谷3番地に若山立蔵、マキの長男として生まれ、繁と命名された。
1890年(明治23年) 5歳 2月、医師である父立蔵が隣村の西郷村に招かれたため、一家と共に同村田代字小川に移る。
1892年(明治25年) 7歳 4月、田代尋常小学校に入学したが、まもなく東郷町羽坂尋常小学校に転校、秋には一家と共に坪谷に帰り、坪谷尋常小学校に転校する。
1896年(明治29年) 11歳 3月、坪谷尋常小学校卒業。5月、延岡高等小学校第1学年に入学。宮崎師範卒業で、優れた文章家であった日吉昇の受持となり、影響を受ける。
1898年(明治31年) 13歳 3月、母と義兄河野佐太郎につれられて、金比羅参りと大阪見物をする。
1899年(明治32年) 14歳 3月、第3学年修業。この春できたばかりの県立延岡中学(現在の延岡高校)に成績優秀で入学、寄宿舎生活を始める。詩歌を深く理解する山崎庚午太郎校長の影響を受ける。
1901年(明治34年) 16歳 2月に延岡中学校友会雑誌第1号が出て、牧水も短歌や小品文を発表。また、東京発行の雑誌「中学文壇」に投稿し入賞、級友たちを驚かす。寄宿舎を出て下宿。
1902年(明治35年) 17歳 2月、同級の大見達也、大内財蔵(後の平賀春郊)、直井敬三らと回覧雑誌「曙」を出す。また、9月には短歌研究のために野虹会を起こし、同級生以外の小野葉桜らも加わる。11月、阿蘇登山の修学旅行。この年、宮崎の「日州独立新聞」や東京の文芸雑誌「新声」などに盛んに投稿。
1903年(明治36年) 18歳 4月、第5学年に進む。5月、校友会雑誌部部長となる。新任の英語教師柳田友磨は牧水の詩才を認め、文学に専念することを勧めた。この秋頃から牧水の号を使い始める。
1904年(明治37年) 19歳 卒業後の志望について悩むが、3月に入り早稲田大学英文科入学を決意。同月末、延岡中学を卒業。4月、一旦家に帰った後、上京。早稲田大学文学科高等予科に入学した。5月、本郷西片町に尾上柴舟を訪問する。6月、教室で同じ九州出身の北原白秋(当時射水と号していた)と知り合う。同級の中村蘇水とも親しく、3名で「早稲田の三水」と呼ばれる。
1905年(明治38年) 20歳 1月、尾上柴舟を中心に、正富汪洋、前田夕暮等と「金箭会」をおこすが、数ヶ月で「車前草社」となり、まもなく三木露風、有本芳水も加わる。6月末、高等予科の課程を修了して坪谷に帰省。8月末に上京。

 

1906年(明治39年)~1925年(大正14年)

1906年(明治39年) 21歳 英文科の同級生らと回覧雑誌「北斗」を発行。6月末に帰省。日向の海岸を日高秀子らと歩いたりした。故郷の家は父が財産をなくし母は病床にあった。牧水自身もしばらく病床に臥せったが、9月中旬に上京。
1907年(明治40年) 22歳 春頃、園田小枝子との交際が始まる。6月下旬、帰省の途につく。岡山、広島など中国地方を旅行し、7月中旬に坪谷の家に帰ったが、数日後には県南の青島、油津、都井に旅行。8月末に上京。10月頃には、牧水は東京に永住し、文学者になることを本気で決心する。一方、小枝子との恋愛は熱烈に進行。11月日向出身の友人である日高秀子の死を悲しむ。12月の終わりから小枝子と千葉県の根本海岸に滞在。
1908年(明治41年) 23歳 4月、小枝子と百草園に泊まる。7月5日、早稲田大学文学部英文学科を卒業。その直後に第1歌集『海の声』を出版。同月下旬から土岐善麿と軽井沢に遊び、それから1人碓氷峠を越えて帰京。9月下旬、大学卒業後初めて帰省、同月末に上京。この頃、文学雑誌の発行を計画。12月末には小枝子を迎えるための家を用意する。
1909年(明治42年) 24歳 結婚問題も雑誌創刊も行きづまる中、苦悶しながら1月下旬から千葉の布良の海岸に遊ぶ。6月、小枝子と前年に遊んだ百草園に1人行く。7月から年末まで新聞社に勤務。
1910年(明治43年) 25歳 1月、第2歌集『独り歌へる』を出版。3月、牧水編集の詩歌雑誌「創作」発刊。4月、第3歌集『別離』を出版して好評を博し、注目歌人となる。しかし、小枝子との問題が解決できず、苦悩の日々が続く。9月から11月まで、山梨、長野などへの長い旅に出る。
1911年(明治44年) 26歳 春頃、5年に及んだ小枝子との問題が彼女の離京によって終わりを見た。夏頃、太田水穂宅で初めて太田喜志子に会う。9月、第四歌集『路上』を出版。その後、相模への旅に出る。

1912年
(明治45年~
大正元年)

27歳 3月、長野へ旅行し、実家に帰省していた太田喜志子と会い結婚を申し込む。4月13日、友人石川啄木の死に立ち会う。5月、「創作」に代わる短歌雑誌「自然」を創刊するが経済的に行きづまり1号だけに終わる。5月5日、上京して来た喜志子と結婚。同月末、牧水は三浦半島に旅行。7月20日、故郷の父危篤の電報を受け取り、25日に帰郷。9月、第5歌集『死か芸術か』を出版。故郷にとどまるか東京に出て行くかを激しく苦悶する。11月14日、父立蔵死亡。
1913年(大正2年) 28歳 1月初めより2月初めにかけて、九州沿岸を旅行。2月下旬、母より上京の許可。3月中旬、美々津の海岸に小野葉桜と遊ぶ。4月24日、長野県の妻の実家で長男が生まれ、旅人と名付ける。5月中旬、出郷。6月、東京で妻子との家庭生活が始まる。8月、「創作」を復活。9月、第6歌集『みなかみ』を出版。
1914年(大正3年) 29歳 4月、第7歌集『秋風の歌』を出版。12月、「創作」の経営行きづまり休刊、人見東明の「創造」に合併することとなる。
1915年(大正4年) 30歳 3月、病気の妻のため、神奈川県三浦郡に転居。10月、第8歌集『砂丘』を出版。11月27日、長女みさき誕生。
1916年(大正5年) 31歳 6月、第9歌集『朝の歌』を出版。12月、三浦郡から東京に引きあげる。
1917年(大正6年) 32歳 2月、「創作」を復活発行する。4月中旬、故郷の老母が上京し、約1ヶ月滞在。8月、妻喜志子との合著の第10歌集『白梅集』を出版。
1918年(大正7年) 33歳 1月、鎌倉、沼津、伊豆土肥温泉に遊ぶ。4月22日、次女真木子誕生。5月、第12歌集『渓谷集』を出版。7月、第11歌集『さびしき樹木』を出版。
1920年(大正9年) 35歳 8月、静岡県沼津に転居。
1921年(大正10年) 36歳 3月、第13歌集『くろ土』を出版。4月26日、次男富士人誕生。
1923年(大正12年) 38歳 5月、第14歌集『山桜の歌』を出版。
1924年(大正13年) 39歳 3月、長男旅人を伴い、九州各地を旅行して、坪谷に帰る。4月12日、父の13回忌法要を営み、16日、母を伴って故郷を発ち、沼津に帰る。母は1ヶ月間沼津に滞在。住宅兼雑誌発行事務所を建てる資金集めのため、短冊半折揮毫頒布会を計画、9月に第1回目を沼津で、11月には東京で開催する。
1925年(大正14年) 40歳 1月、妻と共に大阪で揮毫頒布会を開催する。2月には沼津に約500坪の土地を買い、新居の建設に取りかかり、10月には落成し入居する。12月、九州各地を旅行の後、都農町に長姉を訪ね、老母と2人の姉を伴って別府温泉に遊ぶ。

1926年(大正15年)~1938年(昭和13年)

1926年
(大正15年~
昭和元年)
41歳 5月、長年の夢であった詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊、各方面から賞讃を受ける。8月、千本松原伐採処分問題で、反対運動の先頭に立つ。「詩歌時代」経営困難のため、10月号限りで廃刊となり、欠損補填のため、各地を巡り、苦しい揮毫旅行を続ける。
1927年(昭和2年) 42歳 5月、妻と共に朝鮮揮毫旅行に発つが、疲労と足を病み、7月、朝鮮から帰る。その途中で九州を旅行して坪谷に帰り、老母を見舞い、父の墓参りをする。同月末に沼津に帰ったが、健康のすぐれぬ状態が続く。
1928年(昭和3年) 43歳 9月初旬から病床に臥し、13日には急性腸胃炎兼肝臓硬変症で医師から重体の宣言を受ける。17日、沼津の自宅で永眠。遺骨は沼津の乗運寺内の墓地に埋葬される。法名は古松院仙誉牧水居士。
1938年(昭和13年)   9月、妻喜志子と牧水の高弟大悟法利雄により、第15歌集『黒松』が出版される。

参考:大悟法利雄著「若山牧水伝」(短歌新聞社)、伊藤一彦著「若き牧水」(鉱脈社)

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