宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
西都原幻想紀行

記紀神話の世界を旅する

宮崎市佐土原町と新富町の境を流れる一ツ瀬川を西都市に向かって遡っていくと、平野の左右に小高い里山の連なりが見えてくる。標高70mほどのどこにでもありそうな山だが、その頂上は定規で線を引いたようにどこまでも平たい。南九州で「原」(ハル)と呼ぶこの地形は、約2万5000年前の姶良カルデラの大爆発で形成された火山灰の台地が代表だ。火砕流や火山灰がもとの地形の凹凸を埋めつくして、あたりを平らにならしてしまったせいで、まるで山の上に地平線があるかのような独特の景観を作り出している。大小あわせて311基の古墳が集まる日本有数の古墳群、西都原古墳群は、そんな「原」の上にある。

神話と考古学をつなぐ架け橋

墳長176mの巨大古墳である女狭穂塚(めさほづか)から、野球のピッチャーマウンドを思わせるような小さなものまで、311基の古墳が東西1・5?、南北2・7?の台地を中心に密集している西都原古墳群。古くから聖地として古墳が守られてきたことや、昭和時代のはじめには国の史跡に指定されたこともあって、そのほとんどは開墾や整地で荒らされることなく現在にその姿を伝えている。

最近の研究で、これらの古墳は4世紀から7世紀にかけて築造され、畿内大和政権との密接なつながりをもつものであることがわかってきたが、なぜこのような大規模な古墳群=クニが、日本の南の端に位置する西都の地に生まれたのか。また、大和と日向の関係はどのような背景をもつものだったのかなど、西都原にはまだまだ謎が多い。

たとえば、西都原最大の規模をもつ男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)は、天孫ニニギノミコトと、その妻であるコノハナサクヤヒメの陵墓であると伝えられ、宮内庁が陵墓参考地としているが、史実として具体的に誰が葬られているのは分かっていない。

また、地元に祭られている古社、都萬(つま)神社や三宅神社は記紀神話の舞台としてロマンあふれる存在だが、西都原古墳群とつながるものは、まだ発見されていない。もとより、考古学的な研究と神話や伝承は分けて考えなくてはならないのだが、それにしても古事記や日本書紀の日向神話が形成されたと思われる時代、日向の国府が置かれた中心都市であった西都に、日本有数の古墳群が存在するという事実は、想像を刺激してくれる。


天孫降臨に始まり、ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメとの出会い、その子である海幸彦・山幸彦の登場、さらに神武天皇の誕生とその東遷まで続く日向神話の時代に、西都原はどんなところだったのか、どのような人々が暮らしを営んでいたのか。古代そのままの風景を伝える西都原を旅して、神話の時代に生きた人々のことに思いをはせてみたい。