宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ

Jajaバックナンバー

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小林市東方の田の神
自然石でできた東霧島神社の石段は、「振り向かずの坂」と呼ばれ、かつて僧たちの修行の場だったといわれる。

宮崎の神官型、鹿児島の農民型

田の神像の姿には、自然の岩石をまつる自然石型、神官の装束をまとった神官型、僧侶や地蔵菩薩を模した地蔵型、そしてよく知られた笠をかぶった農民型がある(以上、青山幹雄氏の分類による)。宝永年間(1704年〜1710年)に鹿児島で発生した田の神像は地蔵型だったが、のちの享保年間(1716年〜1735年)に各地に広まるにつれて鹿児島は農民型、宮崎は神官型がそれぞれ主流になっている。

神官型のルーツは小林市東方にあることは明らかになっているのだが、宮崎でどうしてこれほど普及したのかという疑問は以前からあった。その理由のひとつとして、霧島信仰とのつながりが指摘されている。享保元年(1716年)から二年にわたって続いた霧島山の大噴火によって麓の東(つま)霧島神社、狭野(さの)神社をはじめ周辺の家屋や山林が壊滅的な打撃を受けたことが記録に残されている。これは宮崎に田の神像が浸透しはじめる直前の時期だ。

古くから噴火を繰り返す霧島山への信仰は、性空(しょうくう)上人らによって十世紀頃には体系づけられており、山伏による霧島六所権現(霧島神宮、狭野神社、東霧島神社、霧島東神社、霧島岑(みね)神社、夷守(ひなもり)神社)を道場とする修験道が盛んだった。当時、山伏は神官を兼ね、各地を旅する彼らは新しい知識や農業技術を伝える地域のリーダーとしても受け入れられていた。

写真左から霧島神宮、狭野神社、東霧島神社
写真左から霧島神宮、狭野神社、東霧島神社

山の怒りをしずめる田の神

初期の田の神さあは、こうした土壌の中に入ってきたことになる。噴火の被害はまだ各所に残り、人々は復興に向けて奮闘していたことだろう。この場合、田の豊作を祈願することよりも、これ以上の災害が起こらないように山に祈ることの方が優先されるのはもっともなことで、宮崎では山の怒りをしずめる願いを込めて、威厳のある神官の姿が登場したのではないだろうか。

これはまた、山の神が里に降りて田の神になるという信仰とも重なり合って、田の神がよりありがたみのあるものとして祭られたことが想像できる。後の時代に建てられたものも含めて、田の神像の多くが霧島山に向かっているのも、この大噴火の記憶によるものかもしれない。

写真左から霧島東神社、霧島岑神社
写真左から霧島東神社、霧島岑神社