宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ

Jajaバックナンバー

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伝承されてきた田の神さぁ

秋から冬にかけて、木の実や山芋、猪や鹿といった山の幸をもたらしてくれる山の神は、春になると里に降りてきて田の神になり、人々を見守るという。この田の神をめぐる信仰は、日本中の水田地帯にあるが、それが石の像となって田の脇に鎮座しているのは、南九州に限られるようだ。土地の言葉で「田(た)の神(かん)さあ」と呼ばれるこの神様は、新しい田を開墾するたびにその守り神として祭られてきたもので、田の神の歴史は、そのまま田の歴史ということができる。

現在、確認されているもっとも古い田の神さあは、鹿児島県薩摩郡さつま町のもので、宝永2年(1705年)と刻まれている。宮崎県側では、小林市新田場の享保5年(1720年)のものが最古とされ、やがて都城盆地や、東・西諸県郡といった宮崎県の中部から西部にあたる一帯に広がっていった。三百年もの間、里人の暮らしに寄り添うように鎮座してきた田の神さあは、先祖たちの祈りや感謝を、その小さな石像に受け止めてきたのだろう。

伝承を受け継ぐ人々

無礼講としての田の神祭り

道ばたの田の神さぁもともと武士の人口比率が高く、階級意識が強かった南九州では、民に対する「お上」のお達しは絶対のものだった。田の神さあが普及する背景となった急速な新田開発や増産は、窮迫していた藩の財政改革という目的から起こったもので、人々は婚礼の際の料理まで「一汁一菜吸物二、三種をかぎり、酒は数盃に及ぶべからず」といった通達が出されるほど節約を強いられていた。

一方、実はそれが田の神さあが急速に広まった理由のひとつではないか、という意見もある。『宮崎の田の神像』の著者である青山幹雄氏は、小林史談会の機関誌『ひなもり』誌上で、知恵を働かせた農民が「『ンニャ、コントはな、アン上納を立派にすイ神様ゴワンド(この焼酎は、立派に上納する神様のためのものですよ)』と豊作祈願の田の神像を作り、たらふく呑めるチャンスを作ったのが起こりらしい」と書いている。

田の神祭りは、毎年、春と秋の二回行われていたが、特に収穫を祝う秋の祭りはいつしか無礼講となり、日頃は頭が上がらない監督の役人に、この日ばかりは焼酎を飲んだ勢いでさんざんに皮肉や悪口を言い、女性や子供は煮しめや赤飯、餅などを存分に食べることができた。それは、田の神さあを仲立ちとして、武士と農民をつなぐ緩衝(かんしょう)装置のようなものだったのかもしれない。

伝承を受け継ぐ人々