宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
記紀の道を歩く

記紀の道を歩く

日本の成り立ちを伝える古事記(712年)と日本書紀(720年)を、その直前の時期である古墳時代の記憶の伝承としてとらえると、そこに登場する数々の神話には、原型となる出来事や背景があったのではないかと思えてくる。西都原周辺に、まるで昨日のことのように語られている神話の物語をたどって、『記紀の道』を歩いてみよう。

記紀の道

(1)都萬(つま)神社

『記紀の道』の起点となる都萬神社は、西都原神話の主役ともいえるコノハナノサクヤヒメを祭る。承和4年(837)に官社となったという記録が残る古社で、海幸彦・山幸彦ら三皇子誕生の地とされ、皇子らを育てるために甘酒を与えたことから、日本酒発祥の地の碑もある。境内の大クスは樹齢1200年を数える巨樹で、国の天然記念物に指定されている。

都萬(つま)神社

(2)御舟塚(みふねづか)

高天原から高千穂の峰に来降した天孫ニニギノミコト一行の舟が到着した場所といわれている。

御舟塚(みふねづか)

(3)逢初川(あいそめがわ)

ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメが出会った場所と伝えられる。古事記には「笠沙御前(かささのみさき)」がその出会いの場所と記されているが、鹿児島の野間半島と並んでこの周辺も有力な比定地とされている。

逢初川(あいそめがわ)

八尋殿跡(やひろでんあと)

ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメと暮らすために、縦横八尋(約15m)の御殿を作られたという。

八尋殿跡(やひろでんあと)

無戸室(うつむろ)

コノハナノサクヤヒメが一夜の契りで妊娠したことを知ったニニギノミコトは「国つ神の子ではないのか」と疑う。コノハナノサクヤヒメは、身の潔白の証として出入り口のない産室を作らせて火を放ち、「ミコトの子ならば無事に生まれましょう」とそこへ入り、三皇子を産む。

無戸室(うつむろ)

児湯(こゆ)の池

無戸室で生まれたホオリノミコト(山幸彦)、ホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコトの産湯を汲んだ池。この「児湯」が現在の児湯郡の地名にもなっている。

児湯(こゆ)の池

鬼(おに)の窟(いわや)

コノハナノサクヤヒメに求婚した力自慢の鬼がいた。父の大山津見神(山の神)は「一晩で大きな岩屋を作ることができれば娘を与えよう」と約束する。鬼は奮闘して岩屋を作ったが、大山津見神はすきを見て岩をひとつ抜いて遠くへ投げ「これでは娘はやれない」と断った。

鬼(おに)の窟(いわや)

石貫(いしぬき)神社

コノハナノサクヤヒメの父、大山津見神を祭る。鬼の窟から投げた石がここまで飛び、参道にはその時の石とされるものが残されている。

石貫(いしぬき)神社

男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)

『記紀の道』の終点で、都萬神社から約1時間の散策コースになっている。二つ隣接する巨大古墳でニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメの陵墓と伝えられる。最近の調査で、女狭穂塚は前方後円墳、男狭穂塚は前方後円墳の一種である帆立貝形古墳であることがわかった。

男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)