宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
伝統の街並み

表通りから裏庭にかけて「通り庭」と呼ばれる土間が貫く。通風のためだけでなく、万一の災害の際には、ここが避難道となることを想定していたという。

ばんこ、ツキヌケ、通り庭。
地域を愛し、守る知恵で作られた美々津の町並み。

防災都市を象徴するツキヌケと通り庭

美々津の町は、上町、中町、下町の三本の通りによって形成されている。上町は、高鍋藩の番所や殿様の御仮屋があったところで、渡し船によって幸脇地区につながる旧街道に面している。中町は商人町で、美々津の繁栄を支えた廻船問屋が軒を連ね、海に面した下町は船大工や漁師たちが多く暮らしていた。その三本の通りを横切るように「ツキヌケ」と呼ばれる大きな道が四本通っている。海風が強く建物が密集している美々津は火事の多いところで、宝永2年(1705年)には134戸、宝暦8年(1758年)192戸、安永元年(1772年)にも80戸を焼失する大火に見舞われている。

美々津の街並み

ツキヌケは町内を区画整理して設けられた幅10mほどもある防火用の大通りで、その広場のような空間が延焼を防ぐ役割を果たしてきた。後に、ツキヌケの中央に土蔵造りに限って家を建てることを許され、現在も漆喰塗りの美しい白壁を見ることができる。

白壁と石畳が美しいツキヌケの通り

土蔵造りの白壁と石畳が美しいツキヌケの通り。防火を考えた都市設計が、独特の景観をもたらしている。

また、美々津の伝統的な家には、表通りに面した入り口から裏庭にかけて、「通り庭」という幅一間ほどの土間が貫いている。京都の町家にあるものと同じような作りで、これによって風が通り、夏もしのぎやすくなっているのだが、この通り庭もまた、防災上の役割を担ってきたといわれている。いざ火事や大波といった災害が起こった時には、人々の避難道となるのだという。

美々津は江戸時代から明治時代にかけて、日向灘の激しい波によって何度も土地を削られ、下町の集落が丸ごと消失したこともあった。いざ波に追われた時には通り庭を抜ければ大丈夫、という安心感は大きなものがあっただろうと思われる。ツキヌケにしても通り庭にしても、自らの貴重な土地を少しずつ犠牲にして、互いに助け合う高度な自治の精神がないと実現できなかったものだろう。それは命がけの航海に一丸となって立ち向かっていった、港町特有の気質なのだろうか。

ツキヌケの一角に設けられた共同井戸

ツキヌケの一角に設けられた共同井戸。湧き水の少ない美々津の貴重な水源だった。

縁台の語らい

そんな美々津の分かち合う気質を端的に表しているのが「ばんこ」だ。これは折りたたみ式の縁台で、通りに面した多くの家にしつらえてある。美々津の町を地元の人と歩いていると、それが夕方であれ午前中であれ、「お茶飲んでいかんね」と声がかかるのだが、その声に立ち止まるとすぐに「ばんこ」が引き出され、茶飲み話が始まる。

折りたたみ式の縁台である「ばんこ」

折りたたみ式の縁台である「ばんこ」は、軒下の社交場。顔見知り同士が、茶飲み話に花を咲かせる。

「ばんこ」は自宅用というよりも、人と語らい、もてなすためのもののようなのだ。
その相手は近所の人だけでなく、知らない人でも暑いさなかに通りを歩いていたりすると、思わず声をかけてしまうという。この人なつっこさもまた、多くの人が往来した港町美々津の伝統であるのかもしれない。

豪商、旧河内屋の二階から

現在、日向市歴史民俗資料館となっている旧河内屋は、八幡丸、伊勢丸などの千石船を擁した美々津指折りの豪商で、美しい京格子と白壁が当時そのままのたたずまいを見せている。その頃、二階建ての建築は禁じられていたのだが、ここには立派な二階がある。ただし、天井は梁で頭を打つほどに低く、表向きは物置用の中二階として作られたようだ。

豪商、旧河内屋の二階

この二階の東側、海に面した一室には大きな窓が開け放たれている。河内屋の主人はここに座り、海を眺めて、荷を積んだ船が無事に帰ってくるのを待っていたという。かつての主と同じようにここに座っていると、船影が見えたと、中町の通りを港に向けて走り出していく人々のざわめきまで聞こえてくるようだ。