宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ

東遷伝承

神武天皇御船出の港、美々津。
東遷にまつわる伝承を訪ねる。

天孫ニニギノミコトの降臨に始まる日向神話は、初代神武天皇が日向を船出し、大和平定への途についたという、「神武東遷」の物語をもって幕となる。美々津は、古くから神武天皇のお船出の港とされているのだが、古事記と日本書紀には港がどこであったかの記述はないことから、これは神話というよりも伝承としての話なのだろう。それにしても、美々津にはその伝承を語る事物が豊かだ。そこには、古代から連なる港町美々津の、繁栄の記憶が込められているのかもしれない。

七ツバエ

宮崎県内の東遷ルート

神武東遷の伝承を宮崎県内から広く見ていくと、その始まりは高原町狭野の皇子原ということになる。幼名を狭野丸といった神武天皇は、この地に生まれ、成人して現在の宮崎神宮(宮崎市)近くに居を移された。やがて兄の五瀬命と相談の後、東遷の途につくが、このルートは現在の宮崎市から陸路を北上し、都農町を経て美々津へ向かうというもの。都農町にある矢研の滝は、途上、立ち寄られた天皇が矢を研がれたところと伝えられ、また日向一の宮である都農神社は、この地で国土平安、航海安全を祈願したことが創建の由来となっている。

興味深いのは、後に神武天皇が治めることになる大和国の一の宮、三輪神社と都農神社の関連で、三輪神社に祭られる大物主神と都農神社の祭神である大国主神(おおものぬしのかみ)は、同一神と考えられている。また、都農神社の氏子には三輪の姓を持つ人が多い。古代日向と畿内の交わりを示すものだろうか。

おきよ祭り

旧暦8月1日の未明、町内を「起きよ、起きよ」の声が駆けぬける。神武天皇御船出の朝を再現したという「おきよ祭り」は、東遷伝説の記憶を伝えている

おきよ祭りに再現される船出

さて、美々津に着いた神武天皇一行は、ここで船の建造にかかる。その監督ぶりはあまりにも忙しく、ほころびた衣を立ったまま縫わせたことから、美々津の町内を指す「立縫(たちぬい)」の地名が残った。また、しばし腰掛けて身を休めたという岩は「御腰掛岩」として、現在も立磐神社の境内に残されている。

船も整った後、出航の日を決めて風待ちをしていたところ、天候が良くなったことから急遽日程を変更、八月一日の夜明けに御船出ということになる。安心して寝入っている人々を起こしてまわる「起きよ、起きよ」の声が美々津に響いた。これが旧暦八月一日に行われる「おきよ祭り」の由来となっている。

昭和15年4月には、神武天皇東遷2600年記念として「おきよ丸」が進水。124名の乗組員とともに大阪に向けて航海を行っている。全長21m、二人漕ぎの櫓24挺と帆を備えたこの船は、西都原古墳群から出土した舟型はにわをモデルに作られた。

大阪の堂島川筋を行く「おきよ丸」

1940年4月29日、大阪の堂島川筋を行く「おきよ丸」。美々津を出港して12日目の朝。

おきよ丸の船長だった祖父、矢野源吉のこと。

新ひむかづくり塾美々津軒館長佐藤久恵さんおきよ丸の航海は国を挙げての大事業で、船長を拝命した祖父も相当苦労をしたようです。ただ、わが家にとって、本当に大変だったのは航海の後のことで。一行は美々津から大阪まで航海して、陸路、神武天皇ゆかりの奈良県橿原に着いたのですが、その橿原から祖母宛てに「おきよ丸を買い取ったから、あるだけの金を送れ」と連絡があったそうです。言われるままに、お金をかき集めて送ったのですが、帰ってきたらおきよ丸の大きな幟を見せて「これが全部だ」と。なんのことはない、お金は漕ぎ手だけで80人もいた船乗りたちの飲み食いに消えていました。

それでも祖母は、「そうでしたか」と言ったきりでした。当時の美々津の男というのは、大体がハイカラで芸事が好きで、無駄なお金を使うものだったそうです。それを支えながら家業を切り盛りするのが、当時の美々津女の心意気だったのでしょう。また、船長としてそのくらいしないと収まらないほど、おきよ丸の航海は重い意味のあることだったのだろうと思います。