宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
耳川上流

鉄砲堰で流した木材

耳川の最上流部にあたる椎葉村では、マツ、ツガ、モミ、ケヤキなどの木材を産出した。伐り出された木材は支流の谷に集められるのだが、小さな谷のことでそのままでは流れない。そこで谷ごとに「鉄砲堰」と呼ばれる堰を作り、水を十分にためておいて一気にそれを切り、人工の鉄砲水のようにして押し流していた。一回あたりに流す木材の量は、最低五千石(約900立方メートル)で、川流しの先頭から最後尾までの距離は約6キロほどもあった。

伐採風景

耳川と同じく美々津に河口部をもつ石並川でも、上流に尾鈴山を控えて良質の木材がとれたが、水量が少ないために川流しができなかった。そのため、伐り出した木材を川原に集め、洪水を待って下流に流していたといわれている。流域の木材は大阪方面に出荷されていたが、中でも赤樫は堅牢で水に強いことで知られ、船の舵や櫂に使う材として重宝されていたという。

日向炭の伝統を受け継ぐ宇納間備長炭

「炭の窯出しは途中でやめられないので、20時間ほどは不眠不休。こればかりは昔と何も変りません」

美郷町北郷区で備長炭を焼く上杉貴敬さんは、窯の熱気の前で語ってくれた。上質の樫を、直接火が当らないように3週間かけて乾燥焼きし、十分に水分が抜けたところで空気を入れて点火。それから1日かけて火を上げていき、さらに1週間「練らし」を行う。そして、いよいよ窯出しだ。手塩にかけて焼き上がった炭が窯から引き出されてくる時には、風鈴が鳴るような金属音があたりに響く。この音を聞く時ほど、うれしい時はないという。

炭焼き風景

「昔は、炭焼き小屋も、木を伐り出す山深いところにあったものです。一度山に入ると、なかなか出てこなかったでしょうね。北郷の炭は馬車で西郷まで運んで、そこから高瀬舟に積んで美々津に出していたそうです」

昔の炭焼き風景

北郷区では現在、40世帯70基ほどの窯があり、その炭は宇納間備長炭として品質の高さで評判だ。日向炭の伝統は、しっかりと受け継がれている。

北郷の炭

入郷伝統の釜炒り山茶

入郷地区は現在でもお茶の生産が盛んだが、ここには山茶という珍しいお茶がある。いわば野生のお茶なのだが、栽培し、人が丹精したものとは一味ちがう香りと風味があり、作家の檀一雄は「日向の山茶に勝るものなし」と愛飲していたといわれる。

入郷の茶摘み風景

椎葉、諸塚、五ヶ瀬、米良などの山間部では焼畑農業が行われていたが、山を焼いた後にはたいていお茶の木が自生する。これが山茶だ。製法も昔ながらの「釜炒り」というもので、蒸し器ではなく大きな釜で煎って仕上げる。釜炒りの山茶は、深みのある穏やかな味わいで現在でも人気の高い逸品だ。大量に作れるものではないのだが、このお茶もきっと高瀬舟で耳川を下っていったのだろう。

釜炒り山茶

若山牧水と美々津

耳川の流れが生んだ歌人、若山牧水の美々津に寄せる思いは、約百首にのぼる美々津に関する歌や、いくつもの随想に見ることができる。耳川支流・坪谷川が流れる日向市東郷町に生まれた牧水は、7歳の時に母とともに高瀬舟で耳川を下り、美々津で初めて海を見る。その時の驚きを、随想「耳川と美々津」で、次のように記している。

大洋を望む

「私は六歳か七歳の時、母に連れられて耳川を下ったことがある。そして舟がまさに美々津に着こうとする時、眼の前の砂丘を越えて雪のような飛沫を散らしながら青々とうねり上がる浪を見て、母の袖にしっかりと捉まりながら驚き懼れて、何ものなるかを問うた。母は笑いながら、あれは浪だと教えた。舟が岸に着くや、母はわざわざ私を砂丘の方に導いて更に驚くべき海、大洋を教えてくれた。…」

処女歌集「海の声」の中は、その原体験が映し出されたような歌がある。

あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる

流域に住む人たちにとって高瀬舟で耳川を下り、美々津で海を見ることの驚きや、美々津の町、さらに外の世界へつながる大洋への憧れは、牧水と同様のものであっただろう。歌集「みなかみ」には、「日向国美々津港附近にて」という題で八十首以上の歌が収められ、その中の一首が権現崎にある歌碑に刻まれている。

海よかげれ水平線の黝みより雲よ出で来て海わたれかし

若山牧水