宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
高瀬舟

高瀬舟が産品を積んで耳川を下る。
入郷の特産品は、美々津を経て上方をめざした。

全長103kmの大河でありながら、流域にほとんど平野をもたない耳川は、まるで大きな渓流がそのまま海に注ぐような急流だった。昭和7年にいわゆる「百万円道路」(国道327号の前身)ができる前は川沿いの道も整備されていなかったことから、入郷地区で生産された産品は、高瀬舟と呼ばれる底の浅い舟で、いくつもの荒瀬を超えて流れ下ってきた。

耳川

流域の交通の主役を担った高瀬舟は、全長七尋五尺(約14m55cm)ほどの木造船で、二人で操船した。積み荷は木炭、椎茸、シュロの皮、赤樫、茶など。特に木炭は、当時上方で「日向」といえば木炭を指したといわれており、交易の隆盛ぶりが浮かぶ。

立磐神社のそばにあった清水商店

立磐神社のそばにあった清水商店は、主に木炭を扱った。入郷地区から運ばれた荷が積まれている。(大正10年頃)

高瀬舟の終着点、諸塚村

高瀬舟の最上流の船着き場が、諸塚村の吐の川にできたのは明治35年(1902年)。周辺の産品は、駄賃つけと呼ばれる馬による運搬でここに集められ、高瀬舟で美々津をめざした。舟路を少しでも上流まで延長しようと運行の支障になる岩石除去に努め、その犠牲となった人もあったことが、吐の川にある「遭難記念碑」に刻まれている。

高瀬舟

写真左)帆走する高瀬舟。耳川流域の運送の主役として活躍した。
写真中)諸塚村にある高瀬舟発着場跡の碑。
写真右)高瀬舟が通れない場所では、駄賃つけと呼ばれる荷馬車が運搬を担っていた。

郷土誌「みみがわ第4号」(耳川文化の会発行)の都甲鶴男氏の記述によると、諸塚から旧東郷町山陰までの川下りの所要時間は、夏場で二時間半、水が少なくなる冬場で四時間ほどかかり、美々津に着く頃には暗くなる時もあった。諸塚名産の椎茸の栽培は江戸時代に始まったが、高瀬舟が全盛だった明治・大正時代には種駒による栽培がまだ確立されておらず、ナラなどの原木にナタで切れ目を入れ、自然発生を待つものだった。ほぼ天然そのままの状態で育った諸塚村の椎茸は質が高く、各地で珍重されていた。

椎茸

当時の諸塚村の代表的な産品は、椎茸のほかに木炭、山茶など。中でも木炭は旧西郷村と並んで流域の代表的な産地で、上方で「日向炭」と評判だった木炭の多くは、諸塚で焼かれたものだった。

高瀬舟の運賃

現明治22年から24年にかけて、旧西郷村から美々津まで高瀬舟で木炭を運んだ際の記録が、「西郷村史」に掲載されている。それによると、一回に50俵ほどの木炭を積み、運賃は平均で約1円40銭となっている。高瀬舟は二人で操船し、旧西郷村から美々津までは往復二日の行程だったことから、一人あたりの日当は35銭となる。これは、当時の全国平均賃金の約二倍にあたり、高瀬舟の船頭は相当な高収入を得ていたことがわかる。

椎茸