宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ

Jajaバックナンバー

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田の神さあを語る

市田寛幸さん

山の神はこわい神様といわれますが、里に降りてきて田の神になると、決してたたらない優しい神様になります。私どもも子供の頃は、それをいいことにお供えものがある時は、大人の後をついていって、供えた端からすぐにとって食べてしまっておりました(笑)。

田の神さあは、祭りには化粧をするものでしたが、昔はおしろいや口紅は大変な貴重品で、買えない家は小麦粉を使ったりもしていました。最近はペンキを使うことがありますが、表情も変わってしまいますので、なるべく人間と同じ化粧品を使ってくれればと願っております。私は祈りの対象となってはじめて、田の神さあだと思っております。たたることをしない、何でも許してくれる田の神さあだからこそ、最大限の敬意を払いたいものです。

今村幸安さん

私の地区では、毎年2月と12月の丑(うし)のつく日に、田の神講という祭りがあります。これは回り田の神という小さな田の神さあを、地区の家々で持ち回りでおまつりして、皆がそこに集まって祭りをやるのです。祭りといっても、お供えをして二礼二拍手一礼の後は、宴会になりまして、そちらが主役のようなものです。料理は、赤飯、煮しめ、白和え、鶏のうま煮、まぜ寿司といったもので、これを肴に焼酎を飲んで「なんこ」をやるのが楽しみでした。

昔は、田植えも稲刈りも、屋根をふくのも冠婚葬祭も、みな地域一体でやっておりましたから、こういう祭りが大切で、盛り上がってもおりましたが、最近は農業をする人が減ったのと、女性が多くなっていますので、昼間、食事だけで帰ってしまわれるようになりました。「田の神さあも、さびしこっちゃなかどかい」と思いますが、時代の流れでしょうか。

山下真一さん

都城の田の神は、神官型と農民型が主流で、市内北東部は小林市と同じような神官型、鹿児島県と接している西部は、農民型が多い傾向があります。これは、やはり何かの文化の分布を示しているのでしょう。田の神は、旧薩摩藩の新田開発とともに広がったものです。薩摩藩は武士が多く、村にまで入り込んでいますので、苛烈(かれつ)な圧政というよりも、武士と農民が一体的に開発に取り組んでいたようです。

霧島信仰との関連がいわれますが、享保期の大噴火による影響は深刻でしたので、田の神と切り離しては考えられないと思いますし、修験者の中には、農政担当の役人を兼ねている者もいたほどですので、有形無形に関わりは深かったのでしょう。田の神はそんな背景の中で、地域の一体感を醸成する役割を担って作られたものと考えています。