宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
梅原猛さんに聞く


天皇家の“ふるさと”日向をゆく(新潮社)

「天皇家の“ふるさと”日向をゆく(新潮社)」。丹念な現地取材によって日向神話に新しい光を当てた。

ザ・インタビュー

著書「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」(新潮社)で、日向神話の解釈に新しい方向を与えた哲学者の梅原猛さん。「日向神話は単なるフィクションや寓話ではなく、歴史的な事実に近いことを確信している」と語る梅原さんに、古代日向とそこに暮らした人々のイメージや、記紀神話の魅力について語っていただきました。

「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」(以下、「日向をゆく」)は、記紀神話をフィクションではなく事実としてとらえた時に、古代日向の地に何が見えてくるのか、ということが一貫したテーマになっていると思います。神話は神話として、少し距離を置いて考えてきた宮崎に住む私たちにも、身近な神話や伝承への愛着を呼び起こしていただきました。

梅原:戦前、軍部など一部の人たちによって「古事記や日本書紀の神話はすべて事実である」とされ、それが政治や戦争に利用されてきました。戦後は、その反動もあって「神話はすべてフィクションである」とされ、まともに直視することが一種のタブーになってきた歴史があります。私は「日向をゆく」の取材で南九州をずいぶん歩いたのですが、神話に直結する伝承や場所はもちろん、神話には出てこないけれどそれに関連する独自の伝承が非常に多く、いきいきと伝えられていることに驚きました。

たとえば神武天皇の兄のミケヌノミコトは記紀神話では「常世の国へ行った」ことになっていますが、高千穂では地元に帰り、鬼八という怪物、たぶん土着の勢力なのでしょうが、これを退治することになっている。阿蘇にも同様の伝承があります。こうした事柄を見ていくと、記紀神話が単なるフィクションであるはずない。むしろほぼ事実といえるようなことが、古代の日向で起こったに違いないと確信しています。

「高千穂」はどこにあったのか

そうした観点から天孫降臨を考えてみた時に、高千穂はどこであったのか、天孫族がどういう人々であったのかにも、論及されておられますね。

梅原:高千穂がどこであったのかについては、「笠沙(かささ)のミサキ」の場所が重要です(注)。諸説ありますが、私はやはり鹿児島の野間半島が正しいだろうと思っています。そうすると、ルートからいって朝鮮半島からではなく中国南部から、高度な航海術と稲作文化を持った人々がやってきたと考えるのが自然でしょう。

そこから宮崎の高千穂をめざしたと。

梅原:そうですね。距離的には霧島の高千穂の方がずっと近いのですが、あの一帯は稲作には向いていませんし、また「高千穂」という山はあっても地名がないのが、少し弱いかなと思っています。九州の稲作は、天孫一族の渡航よりずいぶん昔に伝わっていて、適地はすでに他の豪族たちに押さえられていた。そこで苦難の末に、西臼杵の高千穂にたどりついたと考えています。

高千穂は山の中ですが水も豊かですしね。また、あの山に囲まれた地形は飛鳥によく似ています。神武天皇の東征後、先祖の土地の記憶から飛鳥に都を開いたと考えられなくもありません。

四代にわたるサクセスストーリー

天孫ニニギノミコトから海幸彦・山幸彦、鵜戸神宮のウガヤフキアエズ、そして神武天皇へといたる日向三代神話については、どのように考えておられますか。

梅原:ニニギノミコトは大山津見神(おおやまつみのかみ・山の神)の娘・コノハナノサクヤヒメと結婚しますが、これは山を支配する土着神を味方にしたということですね。そこで勢力を蓄えて、西都原に進出したと考えています。そして息子の山幸彦の代になって、今度は大綿津見神(おおわたつみのかみ・海の神)の娘・トヨタマヒメと結婚します。彼らは海のハヤトの一族でしょう。

薩摩半島南端の枚聞(ひら きき)神社が「海の宮」であるとする伝承があるのですが、その近くの金峰町では、南洋の貝を加工して装飾品を作った跡が発見されています。これは当時、大変貴重なものでした。海のハヤトの一族は漁労だけでなく、南島との貿易によって莫大な富を得ていたのではないでしょうか。親子二代で結婚を通して、海・山・田を手中にすることになるわけです。

政略結婚のようなものですね

梅原:私は、山幸彦は容貌に優れ、才知もある相当な美男子だったのではないかと想像しています。そこで意図的に海の宮に送り込まれて、見事に海の一族の姫を射止めたわけですね。「偉くなろうと思ったら、美男子やないとあかんでえ」ということでしょうか(笑)。

そして次のウガヤフキアエズの代になって、日南付近にまで勢力を広げて、日向全域を支配することになり、いよいよ神武天皇の登場となります。いわば日向神話は、三代かけてさまざまな策略をめぐらしながら地固めをして、四代目に大統領が生まれたサクセスストーリーだと。日向神話のそういう生々しさ、人間くささが非常に好きですね。

取材を通して宮崎は何度も歩かれていますが、現代の宮崎の印象はいかがですか。

梅原:実は一家で宮崎が好きなのです(笑)。息子は銀鏡によく通っていて、銀鏡神楽は日本一の神楽だといっていますし、妻はどちらかというと出不精なのですが、行先が「日向」だと聞くと自分も行きたがります。宮崎では神話が、現代においてもいきいきと伝わっていて、その伝承地がすべて景勝の地です。青島や鵜戸神宮のあたりなどは、ほんとうに素晴らしいと思います。観光地として、今後もおおいに売り出してほしいですね。

本日はありがとうございました

注:笠沙のミサキ/ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメの出会いの地とされ、また降臨の際、ミコトは高千穂の地をほめて次のように言ったという。「此地(ここ)は韓国(からくに)に向かひ、笠沙(かさ さ)の御前(みさき)に真来(まき)通りて、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国ぞ。かれ、此地(ここ)はいよ吉(よ)き地」※古事記

梅原猛さん

梅原猛氏プロフィール
1925年生まれ。哲学者。京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学教授、京都市立芸術大学教授、同大学学長、国際日本文化研究センター所長を歴任。現在、国際日本文化研究センター顧問。日本古代史に関する著作が多く、主な著作として、「地獄の思想 日本精神の一系譜」(中央公論社)、「水底の歌 柿本人麿論」(新潮社)などがある。