宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
ひむか神話街道をゆく

宮崎市
宮崎市観光協会 0985-20-8658

宮崎平野の南部にあり、長い海岸線、温暖な気候風土に恵まれた県都・宮崎市。フェニックスや椰子の木がそよぐ、南国色豊かな都市であると同時に、記紀にゆかりのある地や神話・伝説を裏付ける名所・旧跡も多く、観光宮崎の拠点となっている。なお、市観光協会では宮崎神宮や青島神社など神話の舞台となった市内数ヶ所を無料で案内する「神話の語り部ガイドボランティア」を行っている。詳しくは同協会まで。

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青島神社
亜熱帯植物に包まれ、朱塗りの社殿が特徴的な青島神社。彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)こと山幸彦と、豊玉姫、塩筒大神(しおつちのおおかみ)を祀る。毎年1月の「裸まいり」の他、7月には氏子達が神輿を担ぎ青島海水浴場の浜辺と対岸の青島神社までを往復する「海を渡る祭礼」が行われる。

宮崎市

禊(みそ)ぎ発祥の地、阿波岐(あわき)原

日本神話に登場する最初の夫婦神、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国土を作り、その子である天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天上界・高天原(たかまがはら)を治め、その子孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)が地上に降り立つ。いわゆる天孫降臨神話だ。

その瓊々杵命は、大山祇神(おおやまつのかみ・山の神)の娘・木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)と結婚し、海幸彦・山幸彦らを生む。山幸彦の孫である神武天皇はやがて東征に向かう。こうした数々の物語が繰り広げられるなかで、核になる場所が、宮崎市には多く点在する。

住吉神社
宮崎市フェニックス自然動物園となりに位置する住吉神社。伊邪那岐命の禊ぎから生まれた神々のうち、表筒男命(うわつつおみこと)、中筒男命(なかつつのみこと)、底筒男命(そこつつおみこと)の三神(=住吉三神)を祀る。神社に伝わる「元」の文字を円で囲った社紋は、全国二千余の住吉社の元宮である標であると伝えられる。
住吉神社

物語の始まりは、宮崎の一大リゾート地・シーガイアのすぐ近く、宮崎市民の森の中にある「みそぎが池(御池)」。古事記や日本書紀に出てくる伊邪那岐命の禊(みそ)ぎ伝説を今に伝える地である。

木花神社 木花神社
瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻である木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)を祀る木花神社。木花(きばな)の地名も木花咲耶姫の名前に由来するといわれる。境内には海幸彦、山幸彦、火須勢理命(ほすせりのみこと)の3皇子を産んだとき産湯に使ったとされる「桜川」という泉が湧いている。

伊邪那美命は多くの神を生んだが、最後に火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を生んだとき、やけどを負って死んでしまう。これを嘆いた伊邪那岐命は妻を追って、死の国「黄泉(よみ)の国」まで会いに行く。そこで恐ろしい姿に変わり果てた伊邪那美命の怒りにふれ、黄泉(よみ)の国の雷神(いかづち)や醜女(しこめ)たちに追われながら、やっとの思いで逃げ帰る。伊邪那岐命は汚れをすすごうと、「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら)」(古事記)であるこの地で禊(みそぎ)祓(はら)えをした。禊ぎをするときに多くの神が生まれたが、その一人が天照大御神であった。

みそぎが池(御池)
黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命が禊祓えをしたと伝えられる場所。禊祓えをしたとき、伊邪那岐命は多くの神々を生むが、左の目を洗ったときに天照大御神、右の目を洗ったときに月読命(つくよみのみこと)、鼻を洗ったときに須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴神が生まれた。
みそぎが池(御池)

ちなみに「筑紫の日向の…」のくだりは、今も神主さんが結婚式や地鎮祭などの神事でお祓いをするときに出てくる詞で、阿波岐原は、みそぎが池の周辺、シーガイアのある一ッ葉海岸一角の地名として残る。また池のすぐそばにある江田(えだ)神社は禊ぎ発祥の地として、多くの人の拠り所となっている。

江田神社 江田神社
みそぎ池のある宮崎市民の森からすぐの場所にある江田神社。伊邪那岐命と伊邪那美命の両神を祀る。平安時代の「延喜式」には、日向式内四社の一つに挙げられており、日向のなかでも有数の社として崇められてきた。毎年6月と12月に半年分のお祓いをする「オンバレさま」という特殊神事が行われる。


海幸彦・山幸彦物語の舞台、青島

周囲一帯を亜熱帯の植物に囲まれ、まぶしい陽光と潮風に包まれる青島。風光明媚で、夏はビーチとしても人気が高いが、ここは、古事記の中で最も詩情豊かな物語、海幸彦・山幸彦物語の舞台となった場所でもある。

ある日、山幸彦は自分の弓矢と兄・海幸彦の釣具を交換し、海に出るが、兄の釣り針をなくしてしまう。途方に暮れているところ、塩筒大神(しおつちのおおかみ)が来て、海の彼方の綿津見宮(わたつみのみや)へ行くようにすすめる。そこで山幸彦は綿津見大神(わたつみのおおかみ)の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、3年間幸せに暮らす。釣り針も見つかり、いよいよ帰ろうとする山幸彦に、綿津見大神は潮の満ち干を操る2つの宝の玉、潮満珠(しおみつたま)と潮干珠(しおふるたま)を与え、これを持ち帰らせる。嫉妬する海幸彦に対し、山幸彦はこの2つの玉を使って降伏させると、海幸彦はこの後、山幸彦の守護人になると誓ったという。

綿津見宮は青島沖にあったとされており、山幸彦が3年の後に戻ってきたとき、人々は喜び、裸で海に飛び込んで出迎えた。その故事にちなみ、青島神社では、毎年正月「裸まいり」という祭礼が行われる。山幸彦への信仰、そして人々と海とのつながりを象徴する行事だ。

建国の英雄、神武さま

日向神話のクライマックスであり、神話が歴史へと色合いを変える分岐点となるのが神倭伊波礼昆古命(かむやまといわれひこのみこと)こと、神武天皇の東征だ。幼少時代を現在の西諸県郡高原町(たかはるちょう)あたりで過ごしたとされる神武天皇は、成長した後、現在の宮崎市に移り、国家統一を思案し始めることになる。そのときにあった皇居(高千穂宮)の跡が、宮崎市平和台公園近くにある皇宮屋(こぐや)。すぐそばには、神武天皇とその父母である鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりひめ)を祀る宮崎神宮がある。

宮崎神宮 宮崎神宮
神武天皇を祭神とし、その父母である鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫を祀る。狭野杉を用いて造営された社殿は格調高く、日本有数の社として名高い。毎年4月の神武天皇祭では流鏑馬が行われ、「神武さま」と親しまれる秋の大祭での御神幸行列は、県内外から多くの見物客で賑わう。

兄・五瀬命(いつせのみこと)らとともに高千穂宮にいた神武天皇は45歳のとき、国家統一を決意し、日向の美々津(みみつ)から兵をまとめて筑紫(福岡)に向かう。出港後は、豊国(大分)、筑紫から瀬戸内海を経て、浪速(大阪)に入り、紀州に回って大和に入る。大和を平定した後に橿原(かしはら)宮(奈良)で即位し、初代天皇となる。

「生まれながらにして明達、御心確如たり」(日本書紀)と、若くから才覚にあふれ、国家統一の夢を成し遂げた神武天皇に、今も土地の人々は尊敬と親しみを込めて、「神武さま」と呼ぶ。宮崎という地名も「宮のあたり」とか、「宮の所在地」という意味で、神武天皇の宮居があったことに由来するといわれる。緑の木立に囲まれた宮崎神宮の参道を歩くと、玉砂利の荘厳な響きに時間が逆もどりするかのようだ。

太陽と緑に彩られた南国の風情を楽しみながら、数々の古杜や伝説の地を訪ね、壮大な神話ロマンに思いを馳せる。そんな贅沢(ぜいたく)な時間を過ごせるのも、宮崎ならではの魅力かもしれない。