世界初の太平洋横断飛行を
目指した空のパイオニア
空を飛ぶことが「冒険」だった時代、少年期に抱いた空への憧れを原動力に、彼が生涯をかけて描いた航跡は、そのまま日本航空界の道標となっていった。延岡が生んだ民間飛行士のパイオニア、後藤勇吉。夢と挑戦に彩られたその人生は、現代のわれわれの胸をも熱くする。 門川湾での初飛行
大正5年(1916年)9月10日、門川湾を日本初の水上飛行機「白戸式インディアン六十馬力・巌号」が離水、約30メートルの高さを飛行した。操縦は後藤勇吉、19歳。まだ地元延岡には鉄道も通っていない時代だった。勇吉の友人でともに初飛行に取り組んだ奈須仙吉氏の手記によると、「半月が経ってもただ滑走するのみで、一向に浮かない」状態だった。そこで奈須氏が「滑走を充分したところで上舵をとってみたまえ」とアドバイスすると、「巌号」は見事に離水したという。まったく手探りのままに操縦に挑戦したことがわかるエピソードだが、これが後に民間飛行士のパイオニアとなる後藤勇吉の初飛行だった。

左)愛機、富士号と。大正9年7月撮影。
右)延岡中学時代。当時、模型飛行機は最先端の科学だった。
空への憧れを抱いた少年時代
後藤勇吉は、明治29年(1896年)11月12日、現在の延岡市南町に生まれた。父、後藤吉太郎は山産物商・醤油製造業を営み、近隣でも知られた裕福な家庭だったという。明治42年(1909年)、旧制延岡中学校に入学。この頃から機械いじりが好きで、蒸気機関を使った精米機や水上自転車を作り、周囲を驚かせた。
アメリカでのライト兄弟による初飛行成功(1903年)に続き、国内でも明治43年(1910年)に徳川好敏大尉が初飛行しており、こうした空への挑戦が始まった時代の空気が、勇吉少年に飛行家への憧れを抱かせた。
大正3年(1914年)、中学を卒業後、エンジンを学ぶために梁瀬自動車に入社。翌年退社して飛行家・白戸栄之助の助手となり、その一年後には門川湾で「巌号」の飛行を成功させている。大正6年(1917年)、帝国飛行協会の第三期操縦生試験に合格。約500人の受験生のうち合格は3人という厳しいものだった。

延岡市の内藤記念館には後藤勇吉にまつわる資料が常設展示されている。延岡市天神小路255-1TEL:0982-34-6437入場無料
民間飛行士の第一人者へ
この後、召集を受けて一年間シベリアに赴任するが、除隊後の活躍はめざましい。大正9年(1920年)8月、帝国飛行協会が主催した第一回懸賞飛行競技大会で、初の高度5000メートルを記録して優勝。同月、京都=大阪間の郵便飛行、9月には郷土訪問飛行で延岡=宮崎=都城の連絡飛行を行い、11月には大阪=久留米間を飛ぶ郵便飛行競技大会で二位になっている。
大正10年(1921年)5月に行われた第二回懸賞飛行競技大会では距離競技一位、速度競技二位。6月にはわが国初の一等操縦士、一等飛行士に。大正11年(1922年)3月には岐阜から東京への日本最初の旅客輸送に成功。そして大正13年(1924)7月、9日間をかけて初の日本一周飛行に成功した。

太平洋横断飛行に向けて、勇吉が検討していた飛行計画。北太平洋ルートと南太平洋ルートを想定していた。
初の太平洋横断飛行への夢
昭和2年(1927年)6月、前月のリンドバーグによる大西洋横断飛行の成功を受けて、帝国飛行協会は世界初の太平洋横断飛行への挑戦を表明。4名の飛行士の監督として選ばれた勇吉は、飛行コースの研究や計器飛行などの訓練に没頭する。同年5月には、大阪で開催された宮崎県特産品の試食会のために宮崎からカボチャなどを運び、「日向カボチャ」の人気が高まる。これが飛行機による生鮮品輸送の第一号となった。
昭和3年(1928年)2月29日、長崎県の大村から霞ヶ浦に向かう途中、悪天候のため佐賀県藤津郡七浦村(現在の鹿島市)に墜落。機体は炎上し、後藤勇吉は31年の短い生涯を閉じた。人生最大ともいえる挑戦を目前にした、志半ばでの突然の死はあまりにも痛ましいが、勇吉が若き日に残した日誌の言葉には、空をゆく者だけが知る喜びがあった。

最後の飛行の直前に撮られた写真。右端が後藤勇吉。
「二百、三百、四百。ぐいぐいと上って行く。いい気持ちだ。もったいないような気さえして、涙のしみ出るほどの悦びが胸一ぱいに押し寄せてくる。(中略)僕には僕の幸福がある。征空の悦びは飛行家のみが知る。胸一ぱいの声をあげて『俺は空を飛んで居るんだ。俺は幸福だ』と叫んでみたくなった。そして、その後で、心ゆくまで泣いてみたくなった」
空への夢を抱き、その夢に向かってためらうことなく挑戦を続けた後藤勇吉の生涯は、時代を超えて人の胸を熱くする。少年の日に夢に描いた空を、今でも勇吉は飛び続けているのだろうか。
後藤勇吉略歴
明治29年(1896年) |
現在の延岡市南町に生まれる。 |
明治36年(1903年) |
延岡尋常高等小学校入学。(6歳) |
明治42年(1909年) |
宮崎県立延岡中学校入学。(12歳) |
大正3年(1914年) |
4月、梁瀬自動車会社に無給の見習工として入社。(17歳) |
大正4年(1915年) |
1月、梁瀬自動車会社を退社。飛行家白戸栄之助氏の助手に。(18歳) |
大正5年(1916年) |
7月 白戸式インディアン六十馬力を入手。門川町尾末海岸で独力で飛行訓練開始。9月、初飛行に成功。(19歳) |
大正6年(1917年) |
11月 帝国飛行協会第三期陸軍委託操縦生に合格。(21歳) |
大正7年(1918年) |
8月 シベリアに出征。二等看護卒補充兵。(21歳) |
大正8年(1919年) |
3月 復員除隊。帝国飛行協会技師になる。(22歳) |
大正9年(1920年) |
8月 帝国飛行協会主催第一回懸賞飛行競技会で高等競技1位、速度競技2位に。(23歳) |
大正10年(1921年) |
6月 わが国初の一等操縦士、一等飛行士に。(24歳) |
大正11年(1922年) |
3月 岐阜県各務ヶ原=東京代々木間、二名の新聞記者を乗せて日本初の旅客輸送に成功。(25歳) |
大正12年(1923年) |
9月 関東大震災に際し、品川=清水間の郵便飛行を実施。6万通を運ぶ。(26歳) |
大正13年(1924年) |
7月23日から31日にかけて日本初の日本一周飛行に成功。全航程4395km。飛行時間33時間48分。(27歳) |
大正15年(1926年) |
9月 大阪=京城=大連航空輸送計画飛行に成功。(29歳) |
昭和2年(1927年) |
6月 帝国飛行協会が太平洋横断飛行を表明。11月、4名のパイロットを統括する監督に任命され、訓練を開始。(30歳) |
昭和3年(1928年) |
2月29日 午前8時長崎県大村航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中、佐賀県藤津郡七浦村(現鹿島市)上空で機体墜落炎上し死亡。(31歳) |

延岡市砂田緑地にある銅像。
平成8年、生誕百年を記念して建てられた。 |