宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
完熟マンゴー

木からの栄養分が十分にいきわたると、マンゴーは自然に落下する。それを受け止めて出荷するネット栽培はJA西都が開発した技術だ

夢と志だけで集った8人のパイオニアたち。
「太陽のタマゴ」は宮崎を代表するブランドに。

西都市/金丸敏幸さん

昭和60年3月、JA西都に8人のパイオニアが集まった。沖縄の一部で栽培されていたマンゴーの本土栽培に、初めて取り組もうとするマンゴー部会のメンバーたちだ。その前年、西都市役所、JA西都、西都農業改良普及センターなどで構成する果樹技術員会の一員としてみかん栽培の視察に沖縄を訪れたJA西都の楯彰一さんが現地でマンゴーを食べ、感激したことが契機となっての部会結成だったが、情報もノウハウも、植える苗さえもない中で、ただ夢と志だけで始まったマンゴーづくりへの挑戦だった。

「それまでマンゴーといえば小さくて黄色い、いわゆるペリカンマンゴー。沖縄のマンゴーは赤くて大きくて、食べたこともないようなおいしさでした。ほとんど誰も知らないこの果実をぜひ西都で作ってやろうと、農家の皆さんに声をかけたわけです」(楯さん)

部会長の金丸敏幸さんはじめ8戸の農家は、キュウリなど施設園芸の経験があったことから、沖縄との気候の違いは高い技術で十分に補える、むしろ寒暖差の大きさから甘みと風味では沖縄産を上回るはずとの目算もあった。昭和61年に2戸が、翌62年にようやく苗がそろい8戸全員が栽培を始めることになったが、そこからが苦難の連続。果実に黒斑が入る病害に悩まされ、8年ほどはほとんど無収入の状態が続く。

8人のパイオニアたち

左から、安藤優さん、井上和子さん、金丸敏幸さん、島地良次さん、楯彰一さん、曽我一敏さん、日高明代さん

「沖縄では雨よけ栽培ですが、西都は日本初の施設栽培。誰も経験したことのない作物でしたので、土づくり、温度管理、換気と多くの壁がありましたが、果樹技術員会と部会全員で取り組むことでなんとか乗り越えることができました。むしろ、よく8年でものになったというべきかもしれません」(金丸さん)

ある年、たまたま自然落下したマンゴーを食べてみたら、それまでにないおいしさだったことから、ひとつの飛躍が生まれる。西都独自のネットを使った完熟マンゴーだ。樹上で完熟して自然落下するマンゴーをネットで受け止め、糖度15度以上などの基準をクリアしたものを「太陽のタマゴ」のブランドで出荷。最高級品として全国的な人気を呼んでいる。

「もうこれ以上栄養はいりません、というところまで木が栄養を注いだものですから。産地が増えて競争も激しくなってきましたが、日本最高の品質のものを安定して出荷することが、元祖である私たちの使命と思っています」(金丸さん)

    

9月上旬に宮崎県を襲った台風14号は、マンゴー農家の方々にも大きな被害をもたらしました。一日も早い復旧を心からお祈りいたします。