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赤江小学校にある石碑には「オリンピックの覇者に天才無し」の銘が刻まれている。 |
ベルリンを熱狂させた名ランナー1936年、ドイツで開催されたベルリン五輪の5000メートルと1万メートルで、常に先頭を走る果敢な勝負を挑み、場内を熱狂させた長距離ランナー村社講平。石ころだらけの宮崎の道を、練習相手もなくただ一人走り続けた猛練習が、やがて彼を国内無敵のランナーに育てていった。 競技場に響く「ムラコソ」コール画期的なカメラワークで記録映画の最高傑作と評される、レニ・リーフェンシュタール監督の「民族の祭典」は、1936年に行われたベルリン五輪の興奮を現代に伝えている。その白眉のひとつが男子1万メートル決勝。日本から来たひときわ小柄な選手がスタートまもなく先頭に立ち、当時世界一の長距離王国だったフィンランドの三選手を従えて、残り1周半までレースを果敢に引っ張っていた。映画の実況を紹介する。 「小さな村社がやってきた」 最後は力つきて4位となったが、160センチ、50キロという小さな体で、堂々と先頭を切って力走する村社講平の姿に競技場内は騒然とし、「ム・ラ・コ・ソ」の大コールに包まれていった。村社講平、31歳。遅咲きの名ランナーの檜舞台だった。 野山を跳ね回った少年時代村社講平は明治38年(1905)、宮崎市赤江に13人兄弟の五男として生まれる。父国平は酒造業を営んでいたが、友人の保証人になったことで破産。経済的苦境のためか講平は体格が小さく、小学校の運動会でも目立つことはなかった。しかし、山菜とりのための登山や、赤江灘での水泳、青島まで続く砂丘の競走、八重川での魚とり、木登りと、夢中で野山を跳ね回る毎日だった。 大正8年(1919)、宮崎中学(県立大宮高校の前身)に入学。陸上競技への目覚めもこの頃で、運動会の人気種目だった6000メートルロードレースで思いがけず優勝したことをきっかけに、長距離、短距離、投てき、高跳び、幅跳び、三段跳びと、ほぼすべての種目に同時に取り組み始めることになる。 そして宮崎県中学校陸上競技大会の800メートル、1500メートルで優勝。もっとも情熱を傾けた10マイルレースでは、先輩に「この気つけ薬を飲め、馬力がつくぞ」といわれて葡萄酒を飲まされ、後半はもうろうとして失速、3位に終わった。講平にはこうした失敗談がたびたびあり、走り高跳びではどうしても1メートルほどしか跳べなかった頃に、ミカン泥棒に入った畑で持ち主に追われ、夢中で飛び越えた柵は、1メートル70センチはあったとか。 母校の赤江小学校のグラウンドは、中学時代以降も長く村社講平の練習場所だった。 国内無敵の快進撃中学を卒業後、運動具店に勤めるが、やがて都城歩兵23連隊に入営。2年後に退営した後は宮崎県立図書館に勤めながら練習を続け、鵜戸神宮までの往復84キロを練習コースに取り入れるなどしている。当時、未舗装の石ころだらけの道を、足袋をはいて走るのが講平の練習スタイルだった。 昭和4年(1929)、明治神宮競技場で行われたロスアンゼルス五輪予選を兼ねた全日本選手権1万メートルに出場し、3位に入賞。五輪代表には選ばれなかったが、こうした活躍がきっかけとなって昭和8年(1933)、27歳で中央大学に推薦入学。学生として競技生活を始める。 昭和9年(1934)、全日本選手権5000メートル、1万メートルで初優勝した後は、連戦連勝が続き、ついにベルリン五輪への出場権を手にして、冒頭の活躍につながることになる。全日本選手権では以降、5000メートルを5連覇、1万メートルを6連覇と、まさに国内無敵の快進撃だった。 ベルリン五輪のドキュメント映画「民族の祭典」では、世界の強豪選手を相手に果敢なレースを繰り広げる講平の勇姿を見ることができる。 陸上競技の隆盛に貢献第二次大戦の影響で、ベルリンに続いて開催予定だった東京五輪への出場の夢がついえた講平は、昭和20年(1945)、41歳で毎日新聞社に入社、運動部記者となり、全日本毎日マラソン、全国高校駅伝、全日本実業団対抗陸上競技大会などの創設に関わった。 地元宮崎から長距離ランナーをとの夢を抱いて後進の育成にも熱心に取り組み、やがて宮崎陸上界はメルボルン五輪、ローマ五輪に出場した広島庫夫氏を輩出、さらに宗猛氏、宗茂氏、森下広一氏、谷口浩美氏など世界的なランナーも続いた。 五輪長距離で4つの金メダルを獲得し、人間機関車と呼ばれたエミール・ザトペック(旧チェコスロバキア)は、少年時代にベルリン五輪での講平の力走に感銘を受け「ムラコソは私の目標であり、英雄だった」と語っている。平成10年(1998)、92歳で逝去。日本長距離界の先頭を常に走り続けた生涯だった。 講平の足形は想像以上に小さい。この足で、中学時代からほとんどのレースで先頭に飛び出して走ってきた。
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