宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ

 

Jajaバックナンバー

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あの頃、みんな宮崎をめざした
フェニックスハネムーンの時代

新婚旅行ブームに湧いた昭和40年代、南国の明るくのびやかな風景が、日本中の若者の憧れをかきたてた宮崎。
それは新しい自由な時代への夢だった。

空前の新婚旅行ブーム

空前の新婚旅行ブーム

どこまでも広がる青い海と空、フェニックスの葉陰を散策するカップル。昭和30年代後半から50年代初めにかけて、宮崎は空前の新婚旅行ブームに湧いた。ピーク時の昭和49年に、宮崎市内に宿泊した新婚旅行客は約37万組で、これは同じ年に全国で結婚したカップルの約35パーセントにのぼるといわれている。宮崎は、まさに新婚旅行のメッカだった。

まだ飛行機に乗ることが珍しかった時代で、昭和35年の国内航空旅客数は約125万人。それが5年後の昭和40年には500万人を突破する。宮崎の観光ブームは、航空便の発達とともにあり、また「飛行機に乗って宮崎へ行く」ことが、若者たちの夢でもあった。

空前の新婚旅行ブーム

もちろん、こどものくにの設立(昭和14年)やサボテン園の開園(昭和12年)など、宮崎の県土全体を南国の楽園に仕立てた、宮崎交通をはじめとする地元の基盤整備が十分であったことも大きな要因となっている。南国ムードが漂う宮崎の海辺でこれからの人生を誓い合い、神話の物語に胸をときめかせたカップルたちの姿は、「宮崎恋旅」の原点といえるだろう。

空前の新婚旅行ブーム

新しい時代、宮崎への憧れ

ブームの火付け役になったといわれているのが、昭和天皇の第五皇女島津貴子さんと、島津家第12代当主忠義公の孫で、旧佐土原藩主島津久範公を父にもつ久永氏の結婚だ。記者会見で「私の選んだ方を見ていただいて…」と述べるなど、奔放で明るい貴子さんの姿は新しい時代の女性像として注目され、昭和35年、そのお二人が新婚旅行の地として宮崎を選ばれたことで、一躍、宮崎が注目を集めることになる。

空前の新婚旅行ブーム

これ以降、いわゆる「恋愛結婚」が増えるなど、お二人の結婚はひとつの社会現象となった。また、旅行中、お忍びで地鶏店に立ち寄られたことが報道され、宮崎の地鶏料理が全国区となるきっかけにもなったといわれている。昭和37年には、ご結婚間もない皇太子ご夫妻が来県、青島・日南海岸周辺はプリンセスラインと呼ばれ、若者たちの憧れをかきたてた。そして昭和40年には、川端康成原作のNHK連続テレビ小説「たまゆら」が放映。最高視聴率が44・7パーセントを記録するほどの大人気となる。

ほかにも、数多くの映画やドラマの舞台となり、「フェニックス・ハネムーン(昭和42年・デューク・エイセス)」など、宮崎にちなんだ歌謡曲も多く生まれているが、そこにあるのはいつも「若い二人」の姿だ。新婚旅行ブームが過ぎ、今また、恋愛成就を願う人たちのメッカとなりつつあることは、宮崎という土地の、人と人とを結びつける不思議な魅力によるのかもしれない。

「フェニックス・ハネムーン(昭和42年・デューク・エイセス)」

宮崎恋歌