宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
ザインタビュー「田崎真也さん」

profile
青木宣親(あおき・のりちか)さん

1982年 日向市出身。少年時代に野球を始め、日向高校から早稲田大学へ。2002年、東京六大学秋季リーグ戦で首位打者を獲得。2003年、ヤクルトスワローズ入団。背番号23。2004年、イースタンリーグ首位打者、フレッシュオールスターMVP。一軍に定着した2005年には、打率.344 でセ・リーグ首位打者。日本人二人目のシーズン200本安打を達成。2006年、WBC日本代表として世界一に貢献。オールスターMVP、盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。

大山志保さん

デビュー2年目の昨年、首位打者獲得と同時に日本プロ野球史上二人目となる200本安打を達成。今年もオールスターMVP、盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得とめざましい活躍で、一気に球界のトップスターに登りつめたヤクルトスワローズ・青木宣親選手を、秋季キャンプ中の松山市・坊ちゃんスタジアムに訪ねてみました。

3月のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に始まって、11月の日米野球まで、長いシーズンが終わりました。今期も素晴らしい活躍でしたが、振り返ってみていかがですか。

青木:ほんとに長いシーズンでしたね。秋季キャンプにも合流したばかりで、振り返るほどの余裕もないのですけど、成績をみるとちょっと出来すぎかなという感じでしょうか。

安打数では192本と惜しいところで200本を逃しましたが、本塁打、打点、盗塁と大幅に増えました。

青木:昨年の200本安打は一本一本の積み重ねの結果でしたけど、今年は周囲からも期待されていましたし、自分でも目標にしていましたから、ちょっと惜しかったですね。ただ、夏場に調子を落としていたので、それを考えるとよく盛り返したなとも思います。今年は、少しバッティングが見えてきたような感触もありましたので、それが成績につながったのかなと思います。

見えてきた、というとどんなところでしょうか。

青木:まあ「こんな感じかな」と。口にするほどの立場ではないですし、技術的なことは話さないようにしていますので、これ以上はちょっと…。ただ、内野安打が減ってクリーンヒットが増えたことから、きちんとボールを捕らえられるようになったとか、四球が増えたことから、ボールの見極めができるようになったというようなことはいえると思います。

今年はオールスターでもMVP。実力に加えて勝負運のようなものも感じました。

青木:地元宮崎で初めてオールスターが開催されるということで、張り切っていました。受賞したのは第一戦の神宮球場でしたけど、宮崎にいいニュースが届けられてよかったと思います。

青木宣親選手

毎日、自分を立て直して必死に生きてきたんだなと

野球を始められたきっかけについて、教えてください。

青木:僕の場合、もの心ついた時から野球をやる環境にありました。親戚が地元の日向市でチームをやっていて、そこにまず兄が入って。近くの公園でよく試合をやっていたので、遊びに行くうちに自然に自分もやるようになったわけです。ですから、いつの間にか野球をやっていた、という感じですね。

日向というと当時、近鉄バファローズのキャンプ地でしたが、観に行かれたりとか。

青木:ええ、行きました。野茂さん、阿波野さん、ブライアントさんらがいた頃ですね。

その後、日向高校から早稲田大学に進まれます。大学4年時に東京六大学の秋季リーグ戦で首位打者を獲得して注目されますが、プロ入りを決心されたのはその頃でしょうか。

青木:高校3年生の夏に県予選で敗退して、その時にすごく悔いが残ったんです。自分は本当に限界までやったのか。もっと一生懸命やれたんじゃないかと。中途半端に終わらせたくなかったので、よし、大学でも野球をやって、行けるならプロにも行って、とことんまでやってみようと。ですから、高3の夏には、プロ野球を意識していたと思います。

プロ入り後は1年目のフレッシュオールスターMVPに始まって、首位打者、盗塁王、オールスターMVPと野球選手として望める夢を一気に手にされた感があります。

青木:結果としては望んだもの以上かもしれませんが、僕はまだまだ成長できると思います。ただ、今ちょっと振り返ってみると、毎日自分の気持ちと体を立て直しながら、一日一日を必死に生きてきたんだなあという気はします。

最後に、シーズンオフで帰省されたら何をしたいですか。

青木:宮崎はのんびりするには最高の環境ですからね。まず温泉に行きたいですし、好物の地鶏も食べたいですね。地鶏は僕のスタミナ源になっていて、宮崎の知り合いに送ってもらって、いつも食べていますけど(笑)。


青木宣親選手

2006年11月13日 松山市・坊ちゃんスタジアムにてインタビュー