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天孫降臨伝説と高千穂峰「天孫降臨の舞台となった『高千穂』はどこにあったのか」は、昔からたびたび論争の的になってきた。有力とされる二カ所のうち、ひとつは西臼杵郡高千穂町一帯、もうひとつが高原町の高千穂峰だ。 古事記によると瓊々杵尊(ににぎのみこと)は、「筑紫の日向の高千穂のくじふる峰」に降臨されたことになっている。姿の良い高い山の頂きに神霊が宿るという山岳信仰は、日本だけでなく東アジア一帯に広く存在しているが、高千穂峰はその典型的な例のひとつでもある。加えて、天孫が降臨されるほどの山ならば、やはり相当な秀峰であるべきで、特に目立った高峰のない高千穂町ではないだろうというのが、高千穂峰派の論拠のひとつになっている。 また、高原という地名も、天孫一族の故郷である高天原(たかまがはら)に由来するとされる。一方、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」の著者で、哲学者の梅原猛さんは、本誌第3号のインタビューで「霧島には高千穂という山はあっても地名はなく、稲作にも向いていないところから、高千穂町と考えるべきかもしれない」という趣旨の発言をされている。また、江戸時代の国学者・本居宣長は「両方である」とする折衷案を出している。検証が難しく、結論の出にくい話ではあるのだが、そんな議論をよそに秀峰・高千穂峰は、その美しい頂きを天に突き出すようにそびえている。 その高千穂峰の山頂には『天の逆鉾(あまのさかほこ)』がある。これは、瓊々杵尊が「浮きたる島の如く見ゆるものを、鉾でかきさぐり」高千穂峰の山頂に逆さに立てたものであるといわれ、霧島東神社の社宝とされている。 その名の通り、霧島一帯は霧が発生しやすい。霧の中に頂上だけを見せる峰々は島が浮かぶようにみえ、それを鉾でかきさぐったという描写は、なるほどと思わせる。『天の逆鉾』は、後の時代に誰かが建てたものかもしれないが、一説によると奈良時代にはあったといわれ、その由来とともに今でも謎が多い。 神武天皇ゆかりの地・高原町初代・神武天皇は幼名を狭野丸といわれたが、高原町には狭野という地名があり、そこには神武天皇をる狭野神社がある。その創建は社伝によると第五代孝昭天皇の時代とされる。古墳時代よりもはるかに以前のことなので、その時代の記録などは残っていないが、日本という国が形成された時代にはすでにあったと考えられている。 神武天皇は、鵜戸神宮の主神である鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりひめ)の間に生まれた。青島神社に祀られる山幸彦からみると、孫にあたる。その山幸彦は、天孫瓊々杵尊と木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)の子であるので、神武天皇は、瓊々杵尊から四代目ということになる。高原町は神武天皇が生まれ、幼少時を過ごされた土地とされており、周辺には神武天皇に由来する地名が多い。 現在では公園が整備されている皇子原は神武天皇誕生の地と伝えられ、近くには皇子神社をはじめ産湯を使われた跡という産湯石(うべし)、腰をかけられたという御腰掛石がある。長じてからは遊び場だったとされる皇子滝、近くにある御池にも水遊びをされたという皇子港という地名が残っている。 また、宮ノ宇都は、父の鵜葺草葺不合命とともに住まわれた宮があったとされ、ここで育った天皇は、松八重川の狭野渡を渡って宮崎の地へ旅立ったといわれる。ほかにも祓川、祓原、血捨ノ木、都街道など、町内のいたるところに神武天皇にゆかりの地名が伝わっている。 日南市鵜戸にゆかりの鵜葺草葺不合命が子を産み、育てる土地として、なぜ高原を選んだのか。それは、高原が先祖が降臨された聖地であったからだと地元では解釈されている。神武の里・高原町は、神話と史実の境界線にあるような不思議なロマンを漂わせるまちだ。
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